事業所、野球に日常生活戻る
日本社会で「ひきこもり」に関する話題が湧出している(偏見もあり)。5年前、家に閉じこもる若者の支援をと、就労支援のB型事業所「ドリームボール」を立ち上げた。一人の利用者から始まった取り組みは現在20名の登録となった。
「若い人が多いですねえ」、ドリームボールを評しての感想。みんなが笑顔で作業する姿はまるで学校のようだ。利用者から職員になった若者がいる、当事者が支え合う日々がある。落ち着いて彼らと接する日常が戻ってきた。
4月18日母死去。葬儀、法事と続き、5月1日ロサンゼルスから娘と孫二人が帰国。楽しくもあわただしい日常に追われた。名古屋、東京からも子どもたちや孫が帰り、弟家族を交えてのBBQも賑やかだった。これからの人生の目標は、などと「公募ガイド」を定期購読したのだが、もちろん文章を書く時間もなかった。
長女たちは5月29日にアメリカへ帰って行った。家は71歳の妻と70歳を迎える古希野球選手二人になって、また、静かになった。その間の野球は大変だった。母の葬儀直後の試合ではコールド負け。何年振りかで風邪もひいた。次回のゲームからは必ずベストコンディション、快投を演じてやると意気込んだら、5月20日の試合(月曜日)を控えた16日(木)夜から膝に痛みが襲ってきたではないか。何度も経験した怖ろしい痛み、痛風の発作!
初めての診察をお願いした整形外科医院の薬で19日(日)にやっと軽いランニングとピッチングが可能に。マウンドへ上がれるだけでうれしいな、そんな想いで尼崎橘球場へ。結果は3-3の引き分け。1点リードしながら最終回に追いつかれたのはわたしの責任。いい球もあったが、甘いボールも多かった。
この試合であることを悟った。「古希野球選手がベストコンディションで試合に臨めるなんて、ありえないのだ」。そうなのだ。あちこちの痛み、家族の介護、仕事の責任、あらゆる面で若くはない、だからグランドに立てるだけで満足しなきゃ。それで気が楽になった。自分では若いと思っても、世間一般には古希に入ると「高齢者」。
6月に入り、気分一新で新しいバットを購入した。練習も普段どおりに消化でき、落ち着いた気分で迎えた3日(月)の試合(三田谷)ではまたしても初回に2点を先取された。古希野球は難しい、月に一度の試合だから初回がとくに難しい。1回裏にツーアウト、ランナー二塁からわたしのポテンヒットが一塁手後方へ飛ぶ二塁打となってなんとか1点は返す。1-2の4回に三田プリンス待望の同点打が飛び出した。わたしの打球は二塁手の頭上を越えて「球は転々右中間」。ニューバットが生んだ本塁打。
試合は5-2で勝利。相手は決して勢いのあるチームではない。なのになぜか、その日のわたしは勝利の余韻に浸り続けた。2回からは0封、打っては本塁打と二塁打など3安打、しかしなぜこんなにうれしい?
疑問をとく言葉が沢木耕太郎の「作家との遭遇」(新潮社)288~289ページの中に在った。アメリカのスポーツライター(であった)P・R・ロスワイラーの小説「赤毛のサウスポー」について評しながら次のように書いている。「プロ野球のファンにとって待望される超人とは、だからチャンスに必ず打つバッターとピンチに必ず押さえてくれるピッチャーの、二つのタイプの選手しかない」
ロスワイラーはメジャーリーグに赤毛(女性)のピッチャーを登場させた。「夢の中の夢」(沢木)。自分のうれしさは、そんな空想の中の出来事を実際にやってのけたことによる。投げて抑え、打って勝つ。もちろん、古希野球のレベルではあるが、これは温かい家族や事業所の面々が後押ししてくれての「夢の実現」なのだ。そして新しいバットの魔力も。
階下の図書室から「赤毛のサウスポー」を取り出した。買ってあるのがすごいだろうと独り言。ページをめくると新しい感動を伴って活字が大きく目に飛び込む。10日(月)の試合に勝って、三田アウトレットのスタバでゆっくりと「赤毛のサウポー」を読みたいものと、平穏な日常の中で、古希野球投手はまた新しい夢を見ている。
窓の外では涼風が柿の緑の葉をゆるがしている。それにしても静かな土曜の朝だ。
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