日本水泳界を救ったゴールデンコンビ
発達障害と統合失調症を乗り越えて福祉施設の職員を目指す若者がわたしにいった。「僕は大学に行く価値がわからなかった」と。
昨日、土曜日のこと、早朝7時に携帯が鳴った。
「おぅタ・ケ・スィ」(いまだにシじゃなくスィ・・・若干の訛りは彼の武器?笑)
「陽二かぁ、元気か?」
「おまえ、なんか新聞の記事を送ってくれたらしいな。オレわさあ、今アメリカさ」
「大会で?」
「いや、高地トレーニンでフェニックスの北、グランドキャニオンの近くにいる」
「頑張るなあ、楽しんでるなあ。セントラルの会長さんが日経新聞にお前のことを書いていた。おまえが日本の水泳界を救ったって」
「イヤイヤ、俺なんかリーチ一本だからさ」(笑。彼はマージャンが得意だった)
そんな会話があってアメリカ全図を拡げたら、グランドキャニオンの西にボルダー(コロラド州)がある。マラソン選手がよく高地トレをやっている所だ。その西にはラスベガス(ネバダ州)。一昨年オレもフェニックスへ行ったよと自慢する時間もなかったが、日本水泳界のナショナルコーチとなっても、彼は大学時代と同じ心でわたしに語りかける。
日本経済新聞(電子版)は、4月14日に「日本にフィットネスを広めた男」と題して、東証一部上場のセントラルスポーツ創業者の一人、後藤忠治氏を取り上げた。後藤氏は1964年東京オリンピックの日本代表選手だった。だが、日本水泳陣は男子800メートルリレーの銅メダル一個に終わる。惨敗だった。
欧米のトップスイマーは幼少期から室内プールで年中泳いでいる。日本では夏季限定のスポーツ。練習量に明らかな差が生じていたのだ。東京オリンピックで競泳日本代表ヘッドコーチを務めたのは元日大水泳部監督の村上勝芳氏。東京五輪後、彼は代々木体育館のプールで入場料を払って、素性も知らせずに子どもたちに水泳を教えたという。日本競泳界の心ある指導者たちは危機感を覚えながら必死に、手探りで日本水泳の復興を目指していたのた。
恩師の姿に感動した後藤氏は、「60年代半ばは日本に温水プールは4つくらいだった」ところから事業を立ち上げる。ボランティア精神に頼らず、経営を多角化し、コーチには収入の心配をせずに指導に熱中できる環境をと、スイミング、フィットネス、エアロビクス事業を広め、現在では約230店舗、500億円を超す会社に育てている。(これらの情報は日経新聞電子版による)
私の注目した部分は以下の文章。「日本水泳界は70年代から長い低迷気が続いていたが、セントラススポーツが生んだ1組の選手と指導者によってもたらされた金メダルは、暗黒の世界を照らす希望の灯となった」。それが早朝の電話の主、鈴木陽二と鈴木大地(現スポーツ庁長官)その人。
後藤会長が述懐している。学生時代からセントラルスポーツでバイトしていて、「面白くて、しぶといヤツだったから」と。(彼は新潟県村上市の出身)。マージャンのやり過ぎで教員採用試験に落ちたとさえ言われる陽二は、しかし入社後は水泳指導からビラ配り、宣伝カーの運転、遊びを取り入れたレッスンの考案など、一生懸命働いた。「それを見た大地の両親が、12歳の息子をよそのスクールから移籍させた」(後藤)
鈴木大地はスクール育ちで初の金メダリストとなった。陽二が語る大地選手を育てる過程での思い出話は次の機会に譲るとして、順天堂大学体育学部昭和47年卒業の同窓であり、啓心寮(1年時)の同室だった鈴木陽二は、日本水泳界を救い、日本のスポーツ界の構造(学校体育一辺倒)を変化させ、現在にみる日本競泳陣躍進の礎を築いた。
彼の人柄が日本スポーツ界を変えた。わたしはそう信じてやまない。陽二だから、魅力的な人柄だから、選手も周囲の人たちも彼についていったのだ。わたしたちは2019年に70歳を迎える。古希の男がグランドキャニオンを眺めながら、2020年東京オリンピックを目指して若い選手たちと汗を流す姿は、何にもましてわたしへの刺激となる。ありがたきかな友。
大学とはこういう友人に出会う場所なのだ。精神の病に苦しむ若者に、友人の素晴らしさを伝えたいと思う。
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