連日の肉体疲労で限界に・・・

 わたしは数人のスタッフとともにNPOとして障害者の就労支援施設を運営している。名は「ドリームボール」という。硬式野球のボール修理やクッキー事業を行っているが、西脇市農林振興課の指導の下、農福連携事業で「金ゴマ」を栽培しているのも特色の一つとなっている。そこからつながって、援農、つまり草刈りやトマトハウスでの作業もいただく。

 来たる29日(木)には県農業会館の農福連携セミナーで講師の一部とパネラーを担当する。だから連日、外作業の利用者4人とともに作業に汗を出す。いや、汗が流れる毎日だ。ハウス二日、花壇の水やり二日、運動公園の整備一日で一週間が過ぎる。土日は野球場へ顔を出す。鍵の開閉もわれわれの大切な仕事の一つである。利用者も懸命に働く。それぞれに症状を抱えながらよくがんばる。

 16日からは利用者増に伴って西脇市大野に第二事業所を借りた。月額10万円余。経費捻出の苦労有り、引っ越し準備あり、補助金申請も重要な役目となる。あぁ忙しい、時間がない、貯まりくる書類もある・・・。かくして、いつになったら引退できるのかと、外作業をしながら己の肉体疲労にため息をつく日々が続いているのだ。

 作業だけなら疲れはない。わたしの場合、何のことはない、古希野球(最近はDHとして還暦野球の試合にも出場)の練習と試合が半ば職業のようなものだから疲れるだけのことなんだが。忙しさと疲れの中の野球の試合。人生のオアシスのような試合の日。猛暑よりも野球ができる歓びがいっぱいで熱中症とは無縁な自分。が、翌日はトマトハウス内の体感40度はサウナ状態。代表であるわたしが汗を流さなかったら利用者は動かないから、なかなか辛い。

 いつになったら引退が可能なのか?還暦野球、古希野球そして練習、たびたびジム通い、そんなチームメイトの生活を羨ましく思う今日この頃。三人兄弟の末っ子が本日38歳の誕生日を迎えたという。オヤジはもうすぐ70歳。まだまだまとめはできていないのに、けっこうな日々を生きてきた。そして思うのだ。「70歳になるとたいせつなものが絞られて、人付き合いも限定されて、物事を見つめる目が定まっていいものだ」と。

 三浦綾子の小説を初めて読んだ。三浦は43歳の1965(昭和40)年に「氷点」でデビューを飾っている。当時わたしは高校1年生で社高校体育科の一期生としてスポーツに明け暮れていた。亡くなった我が家の両親が生まれた翌年、大正11年に北海道旭川市で生を受けた三浦綾子は30歳でクリスチャンの先例を受け、晩年には戦争責任を問う著作も発表している。

 読んだ本は三冊。1994(平成6)年発表の「銃口」(上下)と1992年に刊行の「母」。銃口では戦争中の教師たちの苦しみが描かれ、母では特高警察に虐殺された小林多喜二のやさしい人間像が母の語りをとおして描かれている。歳をとったからか、最近は小説もテレビドラマも同じ傾向のものが心に響くようになった。

 古希を迎えたら誰にもどこにもおべんちゃらを言う必要はない。志を同じくする者、気の合うものとだけつきあったらいい、そう思えてくるから人生がスッキリしてきた。9月に入ると新車が届く(といっても1200ccのコンパクトカー)。年金暮らしで少ないローンを考えたら小さい車になった。まあ車にはことさらこだわりはない。小遣いも減るなあ、外食も控えないといけないし、息子たちの住む名古屋、茅ケ崎はもちろん、娘のロサンゼルスへも度々は行けないぞと思いながら、そんな生活にうれしさも感じるから不思議だ。

 と、ここで古希野球の投手はふと考える。簡素でつつましやかな生活もいいものだと感じる背景には古希野球が在るからだ、と。古希野球で三田市や神戸市、あるいは丹波篠山市のメンバーと付き合う。そこへ行けば迎えてくれるチームが存在する。幼いころの夢や体験を想いださせる野球がある。全力でプレーし、己の限界に挑戦するグランドがある。勝った負けたと一喜一憂する情熱がある。そうだわたしは確かに「社会とつながる」生き方をしている。だから人生に余裕があるのではないだろうか。

 野球もせず、仕事もなく、ライターを目指すという夢もなく、趣味もなく、質素に密やかに晩年を生きるとしたら、さぞ退屈極まりないことだろう。しみじみと、有難きかな野球。

 

 


 

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

輝くシニア発掘~中高年に励ましを~

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