「おまえは自分の歳を忘れとる」
職場がやたら忙しい。仕事としてはよくやってくれていた中心的なスタッフがちょっと不祥事をやらかして急に退職となった。代表であるわたしに大きなしわ寄せが。すべてを背負って働いて、厚生年金が終了したら(満70歳)「給料を落とすのが通例」といわれる。
自分で創設したNPOで、しかも人の何倍もがんばって組織を支えているのに、などと憤っても仕方がない、それが世の中というもの。そんなNPOは誰にでもくれてやる、とあっさり割り切って、理事長は古希野球の世界に身を投じるのだった。
高校野球はトーナメント方式が主で、一発勝負ですべてが決まる。泣いても笑っても結果がすべて。そこから猛練習や精神主義、投手の酷使が生まれる。トーナメントはそういう要素を必然的に抱えているのだ。
古希野球はリーグ戦。先週に痛い敗戦を喫しても、心がズタズタで眠れぬ夜を過ごしても、次週には必ずリベンジのチャンスがやってくる。まことにありがたい。9月2日(月)は6-7の逆転負け。9日(月)の7:20、三田市の駒ヶ谷運動公園駐車場でヴェテランのYさんが笑う。「おまえは自分の歳を忘れとるわ」と。
・けっして単調なピッチングをしない。
・7イニングを計算して投げる事。
久しぶりにがけっぷちに立った思いがした。試合の4日前、監督は電話口でいう。「わたしの中ではエースはあなたしかいない、自分がマスクをかぶるから、9日は頼みますよ」と。人の好い監督の激励も効いていたのか、ぶり返した猛暑もなんのその、先頭打者を三振にとると、カーブを多くして毎回をゼロに抑えていった
小さく曲がるスライダー、普通のカーブ、そして三つ目は高く大きくゆっくりと曲がるカーブ。3種類のカーブを投げた。4番打者が打席でつぶやいた。「今日はカーブが多いなあ」。7イニングの試合で、後半に余力を残したわたしは5回から全力投球に入る。
踏み出す左脚の位置を10cmアウト(つまり一塁方向)にした。するとストレートが外角いっぱいにコントロールされ、スピードも上がってきた。やっと「自分の歳を知る」ピッチング、納得いく投球が出来た。最終回は外角ストレート、スライダーでショートゴロのダブルプレー。ゲームセット。5-0の勝利だった。
捕手の監督いわく、「往年のピッチングが戻ってきた」。駒ヶ谷運動公園の体育館内で冷たいシャワーを浴びながら、ひとり勝利を噛みしめるとき、現役野球選手であることの歓びが体全体にしみとおる。
70歳のバースデーに納車されたコンパクトなマイ・カーのナンバープレートには、「30-75」の数字が並ぶ。三田の背番号75。これには古希野球の場を提供してくれるチームや三田市への感謝がこもっている。
投げた日の夕食はタンパク質が豊富な肉類と決めている。楽しみに帰宅するとハワイのNさんからメールが届いていた、「私達は9月に日本へ行きます。あなたが参加する希望をお持ちならわたしたちはジャージを持参するので、グレーのパンツをご用意ください」。
勝利投手の余韻なのか、すぐに飛行機のチケット(JALのマイレージで)を購入。20日は茅ヶ崎で日本酒とそば、21日は神奈川県の秦野でナイト・ゲーム、そこから水道橋へ移動してアメリカの友人たちと食事。こんなときのわたしはすごく行動的。
野球の9月、オヤジの季節がやってきた。
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