追悼、日米野球交流の旅(2)
秦野市の中井球場では地域の少年野球公式戦が行われていた。子どもたちのプレーを観戦しながら、午後3時半、一塁側芝席でアメリカ人一行と対面。なじみの顔は二人だけ。ニールさんと固い握手を交わす。日本語が話せない日系三世と、英語が苦手な田舎のオヤジが、しかしなぜか会話が通じるのだ。心が通うからだと思うしかないが。
練習を終えて午後5時過ぎ、ナイトゲームが始まる。試合前のセレモニーでは本部放送席の徳田さん(毎回お世話してくれる人)が粋な演出をした。両国国歌の演奏がそれ。球場に「The Star-Spangled banner」が流れる。2004年の秋、ドジャースのキャンプ地ベロビーチで経験した日のことをきのうのように想いだしていた。東海大病院チームには「君が代」。照明があるから気分は最高潮。
DHとして初打席に立ったわたしはサードゴロでゲッツーだった。二度目は四球。自慢の打撃はお見せできず。あと2回からはレフトの守備に就く。監督であるNeal Fujiwara さんの計らいによる出場だと思う。アメリカ人はパワーを活かすフォームがを各自の身についている。ハワイの若者はほれぼれするような個性的フォームから鋭い打球を飛ばす。試合は東海大病院チームがアメリカの二番手投手からサヨナラ勝ちの長打をかっ飛ばした。お見事!
悔しいのか、宴会場へ向かうマイクロバスは静かだった。わたしはバスに同乗して「万葉の湯」へ。ニールさんはわたしの申し出を受け付けず、一切の費用はなし。宴会が始まると東海大病院の外科部長さんがいた。「昨日ロンドンから帰国」とのこと。英語は達者。こちらは野球が終わるとたちまちに英語苦手な自分に気が滅入る。思ったようなコミュニケーションが取れない。
幸い、この夜は北京大学大学院博士課程で科学誌を研究する西脇中時代の卒業生が水道橋で待っていてくれる。宴会はすぐ早退。ホテル「Tokyu Stey 水道橋」へ向かうが秦野駅から新宿まではすごく時間がかかって、Y君と合流したのは午後11:00頃。水道橋駅近くの居酒屋で再会を祝す。彼は「中国がアフリカへ派遣している特派員の数は日本の比ではない」といった。内向き日本の現状だ。
Y君は学費を稼ぐために東京でバイトをしていた。午前一時に彼と別れたが、北京の地で研究一筋の人生をまっすぐ送る彼の背に、わたしは無言で激励の意を示した。彼がいつの日か、日本の大学で科学史の講義をする姿を見てみたい。Y君、もっと気の利いた店で飲みたかったな。
翌朝9月22日(日)の朝、東京ドームホテルからリムジンバスで羽田へ向かうため、ドームシティ入口のスタバへ寄る。ここも「ちょっと東京を味わう」にはいい店なのだ。コーヒーとシュガードーナツを買っていたら外のテーブルに野球仲間のアメリカ人が二人居るではないか。「やばい!」と思うか、「しょうがない、同席しようか」と考えるか、この差は大きいぞ。わたしは迷わず彼らのテーブルへ歩いた。
幾度か顔を合わせているサンディエゴ在住のAさんと、今回初めて会ったロサンゼルスのパサディナに住む日系二世、マイク・フルタニさん。両親は和歌山の南部(みなべ)出身で、だから「いつの日か南部高校野球部のユニフォームがほしい」とフルタニさんがいった。彼は日本語が出来た。彼を通訳に、野球好きの三人は日米の野球比較について存分に意見を交換した。
何度も日本を訪問しているAさんは海軍で横須賀へも来ているとか。フルタニさんが「日本は好きですか?」とAさんに聞く。答えは「まずまず」。それを聞いて三人は笑った。こんな時間がほしくてわたしは毎回、東京へ来るのだ。二人とは握手をして別れたが、そのときにマイク・フルタニさんがいった。「2021年、ワールド・マスターズで関西へ行きます。野球は神戸であります。あなたもぜひ参加してください」。
アメリカへ帰ったころ、わたしはマイクにメッセージを入れた。「2021年にはいっしょに和歌山の南部へ行きましょう」と。それまでに校長先生や野球部顧問と連絡を取り、ユニフォームの件をお願いしなければ。彼の喜ぶ顔が見たいものだ。
ジョン・バセラーさんはわれわれに大きなものを遺してくれた。彼を偲ぶこのツアーが今後も続くことを願いながら、わたしは羽田を飛び立った。旅の終わりはいつも、ひとり。人生と同じか。だからこそ「内向き」から「外向きへ」シフトしなければ、人生の歓びもないというものだ。
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