ある先生の死に思う
2019年11月発行(No.184)の西脇市広報「にしわき」をめくっていて、ふとあるページに目が留まった。今季初めて冬一番が日本列島を走った日の朝のことである。
「ご冥福を祈ります」と太字の印刷が入った「おくやみ」欄。そこには55年前担任をしてもらった先生の名前があった。83歳、O先生だ。大きな単車で出勤し、頭髪にはポマードのにおいが漂いガッチリ固められていた。チョークの扱いに特徴があった。中学2年生のわたしと28歳の青年教師の出会いだった。
O先生には歓迎すべき出会いではなかったはず。なにしろわたしは学年ナンバーワン。何を隠そう、ケンカが。学級委員長は映画館の息子さんで人格者のW君がいて(後に弁護士となり活躍、故人)それでクラスはうまくまとまっていた。そんな2年6組の夏、日野小学校の同級生がわたしに訴えてきた。「(西脇小出身の)〇〇になぐられたんや」。
「よし、まかせとけ」。昼休みに呼び出してガバンと殴ったら鼻血がドバー。あかんやろ、いや殴ったことより先生に言うことが、とそのときは思った。ワルの風上にも置けないやつだと粋がってももう遅い。生徒指導室へ呼び出され、こっぴどく叱られた。そして鼻血の彼に謝った。わたしは以後一切ケンカをしないと誓った。実際そうだった。
担任のO先生は叱らなかった。困った顔もせず、こんなことを提案してきた。「生徒会選挙にクラスから立候補しろ」と。お前の力を活かせ、副会長に出ろよ、と言われた。落選したいわたしは先生に逆提案。「せんせい、会長なら立候補します」。
講堂(西脇中の歴史的建造物の講堂)での選挙演説、わたしは1分。「最近K中との乱闘事件がありました。生徒会がしっかりしていたら防げます。よろしくお願いします」。1,2年の生徒数は900名。壇上は初体験。しかし結果は落選。予想通り西脇小出身の成績優秀、まじめな候補者が当選した。約900名の投票で、その差は26票だった。
というわけで、わたしは体育部長になり、体育大会にフォークダンスを導入。歴史的なリーダーシップを発揮したのだった。O先生はわたしを否定する言葉は決して口にしなかった。感謝すべき先生だった。
当時の体育大会には学級が盛り上がるプログラムがあった。準備に奔走し、男子と女子がケンカをしながらまとめあげた、「仮装行列」。保護者にも大人気。2年6組の担任は言った。「仮装行列には勝てる内容があるんだよ」。そして取り組んだ「桃太郎」。優勝だった。わたしにはもちろん桃太郎の役は廻ってこない。犬だったかな?担任は偉大だった。
その後、直接先生にお礼を言うこともなく今日の「訃報」と出会うことになった。先生という職業はそういうものなのか。多くの先生は誰にも感謝の言葉を受けず、人知れず亡くなっていくのだが、どっこい、地域の片隅で恩師の想い出に感謝しながら生きている人間がいるのだ。O先生はいうだろうか。「教師というのはそういうものだよ」と。
西脇中学校2年6組。委員長はなくなったと聞いた。委員長W君に金魚のふんのように寄り添っていたM君も市内でながく中華料理店を営みながら若くして亡くなった。わたしには鮮明な記憶の学年、学級だった。生徒会選挙の熱気、仮装行列の盛り上がり、そして担任の先生。古い校舎の板張りの廊下もよかった。若い昔が蘇り。O先生に手を合わす朝だった。
あの頃、織物の街「西脇」も若かった。にぎやかだった。
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