思えば 遠くへ来たもんだ
2月に入った。新しいステージが始まった。今日は還暦・古希野球「三田プリンス」二度目(自分にとっては)の練習日。2020年2月4日、朝は4:48。寒さは感じない。このような早い目覚めは何年振り?野球の喜びとは思えないから、意識のどこかに6年間の仕事とサヨナラする感慨があったのだろうか。
いや、昨日のスタッフ会議の内容を耳にしたからか。NPOの理事長、障がい者就労支援施設の代表が私の肩書だが、それを捨てて後継者に譲る決心をして、ただ一部利用者がさみしがるだろうな、心配だなと思いながら2月1日を迎えたのだった。で、スタッフ会議。内容はわたしが大切にしてきた理念や温かさと異なる部分で議論が盛り上がったと耳にした。
組織とはそういうものだろうと思う。人が変わればやることが違って当たり前。スパッと割り切って引退する潔さ。いいじゃないか、と笑いながら古希野球選手は人生次のステージへと歩みだす(かっこいい)。オレにはライター(スポーツ、文化、歴史、政治なんでも書くぞ)があるさ。
ときどきわたしのコラムに登場する卒業生Yくん(北京で日本・中国学術交流会を主宰する研究者)は遠く故郷を離れていて、だから西脇市の動きに敏感である。彼に勧められて市の図書館を三年ぶりに訪れた。最近のこと。地元出身者の著作コーナーへ足が向く。そこには画家、イラストレーター横尾忠則に関する本があり、直木賞作家・笹倉明の本もズラリ並んであった。
「コブナ少年」(横尾)。昔なつかし昭和の子どもたちの遊び風景が泛ぶ。さらに直木賞作家の3冊を借りた。「ここを通らないとライターの道はないからな」、自分に言い聞かせながら、「静かでいいなあ、図書館は」とその静寂に感心する70歳。そうだ、わたしの少年野球とプロ通算317勝投手、鈴木啓示との接点、これは書き残したい、とすると時代背景も知らなくっちゃ、「次は郷土資料館で昭和30年代の西脇時報の閲覧だ」。時を同じくして資料館地下室で大リーグ関係の資料「今里純資料目録」づくりも始まった(Sくんとふたりで)。やることがいっぱいやんか。
自宅倉庫の図書も整理を始めた。「もったいない本舗」に本を売るのだ。売るといっても引き取ってくれるだけでありがたいと思う。今日はダンボールに8箱いっぱいになった。ものを書く環境づくりが第一歩。書き溜めたUSBを集めた。結構書いてあるわ。野球の未来。
「全日本野球協会のまとめによると、学童少年野球(小学生のこと)の人口は、2007年66万3560人、16年48万9648人。中体連(中学校体育連盟)調査による野球部員数は、09年30万8386人で19年になると16万7435人に減少する」
スポーツライター習志野博は野球の未来を嘆いている。いい視点持ってるな。次のエッセイ集はいつになるのだろうか。ぜひ発刊の運びにしたいものだが・・・。女房からは「自費出版はあかんで!」。宮沢賢治も生前自費出版の運命だったのに。
「今日は出勤しなくてもいいのだ」、解放感、自由度満点の3日朝、大先輩(というより恩師)から電話が入った。「ちょっと来てくれないか」と。齢を重ねた恩師の世話ができるのはありがたい。車を出して所用を済ませふたり、「コメダコーヒー」でゆったり談笑。チキンサンドをほおばりながら二人で口の端を汚しながらよもやま話に花が咲く。
大先輩が言った。「いい人間とつきあうこと。おともだちはな、これと思える者だけでええ」。確かに人生を振り返れば「思えば遠くへ来たなあ」。歌手の梓みちよも亡くなった?それだけにこれからは「いい人とだけつきあっていこう」と思う。まあ今までもそうだったが。
恩師のわたしへのお土産は「週刊ベースボール」(週ベ)。神宮球場のクラブハウスに出入り自由だった恩師(教え子を複数プロ野球に送っている)が「これもって帰れや」と「ヤクルト球団〇〇周年」の特集号を。練習帰りの温かい喫茶店で広岡達郎や野村克也の述懐を読むつもりだ。野球練習に楽しみがひとつプラスされる今日、わたしはユニフォーム姿でコラムを書いている。
海援隊の歌の歌詞には次の一説がある。「思えば遠くへきたもんだ この先どこまでゆくのやら」。ゆくさ、まだまだ今からゆくさ、今からさ。(この文敬称略)
(写真は作業中の利用者と事業所前の芝生。6年間わたしの心と脚を鍛えてくれた)
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