野村克也と西脇市の縁
還暦・古希野球三回目の練習に向かう朝、野村克也の訃報を聞いた。生前は特に彼の著作や言動に注意を払う立場になかったが、亡くなってからのマスコミ情報に「おやっ?」と思わされて、あらためて野村の著書を開いてみた。新しい発見があった。
チームのためには連投も辞さず。そんな投手が好きで、古い考え方を内包しながら人間学を身に着けた人情家。社会人としての礼儀をわきまえない人物を批判し、財布のひもが固い「ケチ」なプロ野球人を喝破する一面もある。マスコミ受けする所以だろうと思った。そのプロ野球界を代表する人物、野村克也は西脇市と深い縁で結ばれているのだった。
「負けに不思議の負けなし。勝ちに不思議の勝ちあり」。野村の言葉である。彼の野球哲学は一貫して「相手ピッチャーが次にどういうボールを投げてくるか。根拠のある予測によって、それを読むことができるようになりたい」(野村克也著「運」竹書房)ことを追求した野球人生だった。そこに西脇市がどうかかわっているのか。まず彼の年度別成績を見てみたい。
1954(昭和29)年に南海ホークス(当時)に入団。この年は9試合、11打数0安打。直訴によって首がつながった2年目には129試合に出場し、打率0.252、本塁打7本、打点54の成績をあげて正捕手の座をつかみかけている。遊びを遮断し懸命に練習していたという。3年目となる1957年は132試合に出場し、打率0.302、本塁打30、打点94という堂々たる成績を残した。ところがプロ生活4年目、5年目は本塁打ともに21本、打率も0.253と低迷期を迎えた。給料が増え、遊びも覚え、本人曰く「慢心が招いた」低成績。もちろん相手のマークも厳しくなって苦手なカーブに苦しんだ。6年目の1960年にやや回復傾向を示し、本塁打29本、打点88、打率0.291をマークした。バットを短く持ったのもこのころと思われる。
こうして打者・野村は「情報収集とデータ分析に取り組んだ」(上述「運」)。そうして「ちょうどそのころ、こんな運が舞い込んでくることがあるんだな」、という出来事に遭遇する。ある日郵便物が舞い込み、そこには「野球が大好きなお医者さん」がアメリカで見つけた本を訳した「テッド・ウィリアムスの打撃論」(小冊子)が入っていた。野村曰く「知り合いでもない私のところへこんな貴重なものを」なぜ送ってくれたのだろうか、と。
メジャーリーグ二度の三冠王で最後の四割打者、テッド・ウィリアムスは8割の確率で投手の投げる球を予測できた。サインを見て投げる球を決めたとき、投手には少なからずクセが出るものだ。野村はそれを読んだとき、「目からウロコだった」と語っている。「投手の小さな変化」など当時の日本プロ野球界では誰の頭にもなかった。アメリカのすごさを学んだ野村克也は、以後1962年から44,52,41,42本のホームラン数を記録するなど、8年連続本塁打王と「戦後初の三冠王」に輝くことになる。「テッド・ウィリアムスの打撃論」はまさに彼にとって「幸運」なバイブルそのものだった。
実はその送り主こそが、西脇市の歯科医だった今里純先生その人。大リーグ関係者の間では「ドクター・ジュン・イマザト」でとおっていた大リーグ研究の第一人者だった。今里先生と野村選手の写真は1枚だけ残っている。日米野球の際、大阪球場(当時)のダグアウトで撮影されたものである。だが、野村選手は「幸運」の送り主が今里先生だとは知らなかったのではないか。というのも、野村を監督に迎える際に阪神球団は三好社長、吉田義男をはじめ、球団顧問だった故・今里純との関係を清算することになる。冷たい仕打ちだった。
こうして二人の関係は表面化することはなく、プロ野球の歴史の舞台にも登場することはなかった。だが、わたしたちは知っている。今里先生は阪神タイガースのためだけでなく、王選手(巨人)や山内選手(大毎当時の)にもアメリカの野球に関する情報を惜しげもなく提供した事実がある。
現在、今里コレクションの目録作りに取り組むわたしは、故人が「日米野球の架け橋」として大きな業績を遺している事実を日々目の当たりにしている。近い将来、多くの方々の目に再びコレクションを公開できるよう努力するつもりである。野村克也を大打者にした「テッド・ウィリアムスの打撃論」、それは夜を徹して翻訳作業に従事した歯科医のなせる業だった。野村克也と西脇市の縁。ちょっといい話だと、わたしは思う。(文中敬称略)
(写真は目録作成中の今里コレクション一部)
0コメント