日米野球の歴史に触れる日々

 新型コロナウィルスが世界中に拡がってきた。国内でも今日から多くの小中学校および高等学校が休校に入る。兵庫県西宮市でも県内初の罹患症例が発表された。国会では首相に関する「さくら問題」「検事の定年延長」などスッキリしない状況も続く。世情騒然、責任はいったいどこにあるんやと叫びたくなる人も多いことだろう。

 そんな時勢に「野球の歴史」とは、ちょっと気が引けるがやはり書いておかなくては。故・今里 純先生(以下、今里)の資料を整理して目録作りを進めているが、やっと目途が立ってきたようだ。3月中には完成するかもしれない。西脇市の旧図書館跡(リージョン)の地下室をお借りしてひたすら目録を作る日々が続いている。孤独な作業には慣れたが。

 作業と並行して日米野球の歴史に関する本を読んでいる。「日米野球の架け橋~鈴木惚太郎の人生と正力松太郎~」(波多野勝・芙蓉書房)がそれ。戦前のプロ野球創設に尽力した鈴木惚太郎(以下、惚太郎)は1934(昭和9)年11月の全米チーム来日に大きく貢献した。引退まじかで日本行きを渋るベーブ・ルースをニューヨークの床屋で翻意させたエピソードはあまりにも有名で、このときの日米野球をきっかけとして「東京ジャイアンツ」(後の読売ジャイアンツ)が結成されている。

 惚太郎についての詳述は上記出版物に任せるが、彼は元は貿易会社の社員だった。ニューヨークに駐在して語学を学び、午後はヤンキースタジアムで野球観戦を楽しんだ。英語ができて、現地の野球事情に詳しい。今里は進駐軍向けの短波放送(ラジオ)を聴いてスコアをつけた。惚太郎は新聞、雑誌等に野球の記事を投稿し、読売の目に留まって顧問となった(後には重役)。

 惚太郎は何度も渡米し、日米野球の架け橋として活躍。ドジャースのオーナーだったウォルター・オマリーとは生涯を通じて強い絆の友情を育んだ。大リーグに広い人脈があった。  巨人九連覇の基礎をつくったベロビーチ・キャンプは鈴木の尽力があって実現したものだ。 今里は内村コミッショナー時代(三代目)からコミッショナー事務局待遇として活躍、大リーグの情報を事務局や各球団に伝達していた。阪神タイガース初の海外キャンプ(1963年フロリダ州レークランド)は今里が渉外を引き受けた。波多野によると、鈴木に関する記述にはコミッショナー事務局、井原 宏の名前がたびたび登場する。今里が井原とおさまる写真も多数存在する。

 日本プロ野球の生みの親ともいうべき鈴木と今里に接点はなかったのだろうか?わたしとしては大いに関心をそそられる歴史の一ポイントだ。奥さんの回顧談によれば、「長男の聡が生まれたとき鈴木惚太郎先生から虎屋の羊羹が送られてきた」とのことである。上記の波多野勝(総合教育研究所代表、歴史研究家)は鈴木の日記や資料を整理する作業を行っている。横浜の山手にある鈴木の自宅で貴重な資料を発見したと聞く。

 それら手紙、日記、電報等の資料は、野球文化学会発行の「ベースボーロジー」(2018 Vol.12)に詳細が掲載されている。学会員であるわたしはさっそく事務局へ電話を入れた。担当のTさんは「すごいですね(今里の仕事は)。わたしは名前を存じ上げませんでした」といった。ちなみに波多野は「プロ野球の関係者でこれほどまとまって資料が残されているものは他にない」と断言しているのだが、東京文京区にある野球殿堂博物館のある学芸員は「個人として所有するものでは日本一ですね」と今里資料を評価した。それゆえ両者の資料の接点を何とか事実として発見したいと思うのだ。

 日米の野球の歴史を調べる必要から書棚を整理していたら、漫画家・水島新司先生直筆の絵が出てきた。神宮の軟式野球場で先生のチームに混じってプレーをして、喫茶店でコーヒーを飲んでいて、わたしの友人が先生にお願いしたときの絵。「じゃ、紙と鉛筆持ってきてよ」、そういって嫌な顔もせずさらさらっと描いてくれたのが我が家にある写真のこの絵。これも日本野球の一つの歴史である。

 鈴木惚太郎、今里 純そして水島新司。素晴らしい人たちの息吹を感じながら、わたしは田舎と東京都、さらにはニューヨークやロサンゼルスにつらなる歴史を歩いている。これはとても幸せな気分なのだ。5日は古希野球今シーズン初の練習試合を宝塚市で行う。昔と今、野球に連なる先人の命を感じる日々である。(敬称略)


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