野球ができる、野球がある「幸せ」

 3月26日(木)の三田谷公園は今春一番ともいえる好天に恵まれて、還暦野球の試合が行われた。「連盟加盟者から一人でも罹患者が出るとその時点で公式戦は中止」。それでも今のところは試合が可能なのだ。2試合目は交流戦。1試合目の公式戦に出場したわたしはベンチ横のいすに座ってボール拾いやバット引きに動きながら、隣席の選手と確認しあうのだった。「この暖かさの中で野球ができるなんて、幸せですねえ~」。

 1試合目は成長する喜びを味わった。70歳の古希選手が60歳台の還暦選手の中へ先発メンバーとして入れるだけで充分なうれしさがある。8番セカンド。ライパチ(ライトで8番打者)は草野球のへたっぴを象徴するポジションだが、わたしはセカンド。慣れないポジションではあるが、勝利に貢献するぞと思ったものだ。

 この日の成績は、守っては4つの打球を処理。3つの難しい打球を処理し、仲間から喝采を浴びた。打撃は2打数1安打1打点、死球1。「セカンドも楽しいな」、この歳で野球の魅力を再発見した本日の還暦野球。須磨シルバーソックス相手に6-0、7-0の勝利。ここ2週間の肉体改造で脚力が戻ってきて、それがファインプレーにつながった。野球は脚、を再確認。

 スポーツは社会とつながってこそ存在意義がある。還暦野球だけじゃなく、さあ次は大リーグ資料の整理が待ってるぞ。野球ができる身に感謝して、翌金曜日は西脇市の旧図書館跡の地下室へ。目録も千点を超え、かなりの数を消化している。その中でアルバムが出てくると正直「ぞっとする」。写真を1枚ずつ確認して貴重なショットを見逃さないように注意しながら目録に書き込まなければならない。

 1963年に阪神タイガースは初の海外キャンプを張った。そのときのアルバムが数冊。タイガーデンでデトロイト・タイガースの選手たちと練習を重ねる若き日の小山、村山、吉田など、表情が明るさに満ちている。帰路ハワイに立ち寄った一行はビキニの美女を横目にリラックスした姿が印象的だ。このキャンプには大リーグ通で通訳を兼ねる西脇市の歯科医・今里純が重要な役割を果たした。資料の整理は大変だが、こうして日米の野球の歴史に触れる喜びもある。喜びといえば、今里さん、わたしより先に同じ場所へ行かれている。

 ミネアポリスでは1990年に奇しくも同じホテルに泊まり、ハンフリー・メトロドームの入り口、チケット売り場前の同じ場所でスナップを。ネット裏最上階のメディア席ではわずか1か月のすれ違いで同じ記者席にいる。人口4万人足らずの兵庫の田舎町から大リーグの視察を同時期に二人の人間が。今里と自分の若き日に思いをはせながらの目録作りもいいものだ。

 今里はシカゴ・ホワイトソックスの本拠地、コミスキー・パークへも足を延ばしている。1990年のこと。この夏、わたしは当時パ・リーグの広報部長だった伊藤一雄(パンチョ)グループに同行してこの球場を訪れた。オーナーの名をつけたコミスキー・パークは1990年9月に閉じられた。わたしはそのラスト・コミスキーに出会う幸運を得たのだった。1919年のワールド・シリーズで絶対有利と言われたホワイト・ソックスがシンシナティ・レッズに敗れ、のちに八百長が発覚して8名の選手が永久追放された、あの有名な「ブラック・ソックス・スキャンダル」の舞台。フィールド・オブ・ドリームズ(映画、小説)のシューレス・ジョー・ジャクソンがプレーしたのはコミスキー・パークだった。

 パンチョは自著「メジャーリーグ紳士録」にこう記してある。「いまや、よき思い出の球場のあった場所は駐車場となり、その一角にホームプレート型の大理石が埋められ、コミスキー・パーク1910-1990と書かれている。それだけが、この歴史的建造物をしのぶよすがとなっている」。

 その言葉を借りれば、わたしにとって「今里資料は大リーグの歴史と今里、パンチョの人生をしのぶよすがとなっている」。地下室で二人との会話を続けながら思うのだ。「今も今里とパンチョが存命であれば、われわれ3人はどのような大リーグ談義を愉しむのだろうか」と。1990年8月に撮影した大リーグ最古(当時)の球場、「ラスト・コミスキー」は30年間変わらず我が家の居間で思い出を紡いでいる。

 還暦野球、古希野球ができる喜び、日米両球界の歴史に触れる楽しさ。ありがたさを痛感する毎日である。(敬称略)

(写真は、ラスト・コミスキー、そしてシューレス・ジョー・ジャクソン)



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