さあ、再びグランドへ!

 2010年5月23日(土)、本日から兵庫県では新型コロナによる自粛が部分的に解除された。登校する中・高生やグランドを走る硬式野球チーム(中学生)の姿もチラホラ見かけ、好天も相まっていっぺんに世の中が明るさを取り戻したかのような土曜日となった。

 この間、わたしの周囲からは野球が消えた。3月27日(金)から人間相手のキャッチボールは行っていない。ひとりで走り、歩き、ネットに向かってボールを投げてはバーベルを握る日々が続いた。ひとりの練習には力が入らない、あきてくる。ひと時は緊張感のなさと過労からか体調も崩れた。スポーツは人とつながり、社会とかかわってこそ楽しい、そんな当たり前のことを再認識する2か月だった。

   それゆえ自粛期間は夫婦で過ごす時間が増え、感染の増減を報じるテレビの前で一喜一憂した。政府の対応の拙さ、スピード感のなさが顕著になり、そこへきて検察庁法改正の動き。芸能人や著名人が次々にハッシュタグで反対の意思を表明し、その数は1,000万人を超えた。

 そんなわけで、この2か月は日米の野球史を網羅する「今里資料」の目録作りに邁進した。旧図書館の地下室で連日格闘、これがなかなかの難事業で古い書類をにらむため左目に異常をきたしたりした。ゴミが入ったのかも。診断は「他人にうつらない結膜炎」。並行して日米野球史を紐解く読書に時間を費やした。一方ではこれからの人生において政治的な意見をどのような形で意思表示するか、自分の思想的スタンスをどこに置くのかを考える読書時間でもあった。まずは専門のスポーツ分野から。

 故・今里 純先生の資料やコレクションにはびっくりさせられる。数日前のこと、自宅でサインボールを整理していたら、ワシントン・セネターズ(後、テキサス・レンジャーズ)の監督、コーチ、選手たちによる寄せ書きのサインボールがあった。そこにはわたしでも読解できる簡明なアルファベットで「Ted Williams」(監督)と記されてある。そう、史上最後の四割打者と呼ばれるボストン・レッドソックスの#9、あのテッド・ウィリアムズだ。彼は引退後の1969~72年の4年間、監督を務めている。

 その次のビニール袋にはピッツバーグ・パイレーツ選手による寄せ書きがある。年代は1972年だ。探した、目を皿のようにして探した。1972年のパイレーツには悲しい出来事があったから。中南米選手の第一号として後進の尊敬を一身に集め、3,000安打を達成しながら、ニカラグア地震へ救援物資を届けるための飛行機に乗り込み、カリブ海へ沈んだ男、ロベルト・クレメンテ(プエルトリコ出身、1934年~72年)。以後大リーグではその年に最も社会貢献活動を行った選手に「ロベルト・クレメンテ賞」が贈られている。最高に名誉な賞だという。あった!亡くなった年、3,000安打達成の年、1972年のサインボール。くっきりと「Roberto Clemente」。テッド・ウィリアムズとロベルト・クレメンテ、二人の署名を眺め深い感慨に浸ったのだった。

 ニューヨーク・タイムズのスポーツコラムニストだったジョージ・ベクシーの「野球 アメリカが愛したスポーツ」(邦題)を取り出した。ウィリアムズは太平洋戦争、朝鮮戦争に二度パイロットとして応召され、選手としての絶頂期に数年のブランクがあって、それがなければ打者のすべての記録で史上1位となっているだろうといわれる。1941年には打率0.406で四割を超え、以後四割打者は出現していない。さらに2度の三冠王。成績も抜群だがわたしの感銘はベクシーが語る次のエピソードだった。

 引退から6年を経た1966年、彼の姿はクーパースタウンにあった。自らの殿堂入りを祝う記念のスピーチで彼は次のように語っている。「チャンスを与えられなかったという、ただそれだけの理由で殿堂入りを果たせないでいる偉大な黒人選手たちの象徴として、いつの日かサチェル・ペイジ(1906~82)とジョシュ・ギブソン(1911~47)が野球の殿堂入りを認められることを願っています」

 テッド・ウィリアムズ演説後の1971年、ペイジが殿堂入りを果たし、その後17名のニグロ・リーグ選手がこれに続いた。2006年にはさらに17名が名誉の殿堂入りとなっている。大リーグというより、アメリカの歴史ともいえるウィリアムズとクレメンテ、ふたりの自筆サインボールが西脇市に在る。

 新型コロナによる自粛はこれからの社会の在り方を考える貴重な時間でもあったし、これからもあり続けるだろうと思う。その渦中にある5月12日、我が家に4人目の孫が誕生した。付き添いも面会もなく、一人だけの頑張りで出産しなければならなかった母親は、強い。がんばった。きっと孫もたくましく、コロナ後の「新しい世界観」を持つ男の子に成長してくれるだろう。名は「健杜」(けんと)。

 母乳を飲んですやすや眠る赤子の姿をLineで追いながら、70歳の「ジージー」は三田プリンスからの電話を待っているのだ。「みなさんお元気ですか?やっと練習が再開できます。〇日〇時三田谷球場にご集合ください」。でも、まだなんだなあ、これが・・・。

 

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

輝くシニア発掘~中高年に励ましを~

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