野球を愛して~還暦・古希野球復活

 三田谷公園野球場に歓声と笑顔が戻った。自粛が明けた5月28日(木)は午前9時から約2か月ぶりの練習日。公園内はマスクを着用してください、8:45まではグランド内に入らないよう願いますと事務局から連絡を受けていたので静かな現地入り。わたしは気分一新、ジャッキー・ロビンソンの背番号と同じ「42」のジャージを着用した。

 娘さんの住むイタリアはどうですか?「主人が政府の職員でそれほど苦労はないようですわ」とNさん。前立腺肥大手術後の経過はいかがですか?「よく休めたんで。四国八十八か所逆コースの巡礼をしたかったのですが、コロナであきまへんわ」とKさん。私服のMさんは肩痛に加えひざの故障で当分見学となりそう。「医者でね、半月板の3分の2がなく、人工関節を入れれば日常生活は不自由がありません、ただし野球はあきらめてくださいって言われましたよ」とのことだった。野球と年齢、みなさん大変だ。

 体操、ストレッチ、軽いランニングからキャッチボールへ。人を相手のキャッチボールは2か月振りのこと、ボールがグラブをたたく音がこんなにいいものだったとは、新鮮な発見。シート・ノックでは上手な人もいれば変わらずバンザイを繰り返す人、ボールの直前でストップする消極的な人もいて、それがすべて個性的と思われて、「あぁ、みんなグランドへ帰ってきたんだ」とわたしは喜びを隠せなかった。

 初日は28人、2度目の練習日6月2日(火)は29人の参加だった。すごい人数だ。初練習後の疲労をアイスコーヒーとネイチャードーナツで癒すひととき。ちょっぴり苦いコーヒーの味とともに障害者支援施設で野球場の整備を共にするSさんの言葉が頭をよぎる。「先生が辞めたらわたしはこんなしんどいこと一人では出来ません」(わたしは元教師)。ちょっと待ってよ、西脇市の「ふれあいスタジアム」が6年前と比較して今が最高の状態にあるのは整備の専門家・Sさんがいるから。あなたがいなくなれば障害者事業所が市から公園管理委託を受けることができません、外作業のメンバー4人はすることがなくなってさみしい思いをします。そんなやり取りが浮かんできた。

 わたしは事業所を後進に譲って還暦・古希野球や日米野球資料の整理、子どもたちの住む街への旅を楽しむ日常を過ごそう、6年間もうたっぷり地域のために働いたのだ。そう思っていたのに、事業所を譲り受ける人たちがどうも6年間の理念を理解せず、精神障害の利用者に寄り添う姿勢に欠けていて、「もっと人をたいせつにする」施設にしてほしいと憂慮していた矢先のSさんの言葉。「わたしは先生と二人で、あの若い子らといっしょにやりたいんです」。

 そしてわたしは決意した。新しい就労支援B型の事業所を創設しよう、一般社団法人を立ち上げよう、と。「またそんなしんどいことを!」と家族の批判を受けながら、施設利用の若者3人と1人の中年男性の喜ぶ顔、美しく整備された野球場、その誘惑に負けたのだった。この積極さは還暦・古希野球の練習に参加したからこそ生まれた発想ではないかと思っている。

 次回の練習は9日(火)。自主練習を続ける昨日の土曜日、自粛解禁後初の野球場使用のため整備に赴いた。この日を楽しみにしてきた学童や中学生硬式クラブの選手と指導者にはきれいなグランドを提供したい。野球場を管理するものは皆そんな思いで活動しているのだ。「ふれあいスタジアム」には夕刻のさわやかな風が流れる。思いを同じくするSさんもやってきて、内外野に分かれて1時間弱整備を行った。中学生の元気な顔、Sさんとの約束。

 整備後は誰もいなくなった外野芝生上でひとりのランニング。このようにきれいになった運動公園を後退させるわけにはいかない、またしんどいことに挑戦することになるが、やっぱり野球が好きなんだ、スポーツを愛しているのだ、わたしは。還暦・古希野球の現場で生まれた発想はわたしをポジティブな世界へ運んでいくようだ。だから三田プリンスのチームとすべてのメンバーに感謝する。火曜日はもっといいピッチングができそうに思っている。

 

 

シニアの昭和史 独り言 (還暦野球スポコラ改題)

輝くシニア発掘~中高年に励ましを~

0コメント

  • 1000 / 1000